船越明の碑
 会員       後藤国彦     
1   はじめに 
桓武天皇は延暦十三年都を長岡京から平安京へと遷した。平安
京は北に鞍馬山系・東に東山山系・南に巨椋池・西に西山山系
といわゆる四神相応の地のため選ばれたとされる。その西山山
系は小塩山を中心として6百mを越える山並みが連なり,山麓
には遥かに京都市内が望めるなだらかな高原が広がる。
そして西山にも東山にも劣らぬ名刹が数多くある。弘法大師の
祈願により湧き出た眼病に霊験あらたかな独鈷水の「柳谷観音」
(楊谷寺),桜の古木が見事なため花の寺とも呼ばれ天武天皇
の勅により役行者が創建した「勝持寺」,全長50m樹齢6百年
の五葉松で横に這う様が龍に似た遊龍の松のある「善峰寺」,
養老2年創建で秋には全山が赤く染まり石の階に紅葉を散らす
「金蔵寺」などである。
そしてその金蔵寺の山門前の駐車場の一角に表面に『陸軍少佐 船越明戦死之地』,裏面に『飛行第56戦隊 飛行隊長26歳 佐賀県出身 昭和20年5月11日 阪神大空襲の際 金蔵寺上空において 三式戦闘機飛燕にて B29編隊群に突入 被弾墜落した』と刻す追悼碑(写真)がある。
同じく「飛燕」(写真)を駆って大阪府北河内郡星田村(現交野市星田)で撃墜された中村純一中尉については,多くの目撃談からその墜落の様子が克明に分かりまた墜落機体も発見されて展示公開され,中尉の書簡や関係者が語った生い立ちなどが纏められた「陸軍中尉 中村純一追悼録 或る学鷲の生涯」も上梓されている。
しかしこの碑にある「船越明少佐」については,目撃談や記録がなく遺機なども発見されていない。碑を建てられた元上官は既に鬼籍に入られ,親族も不明である。そこで果敢に散華した船越明少佐を顕彰するためその戦闘の様子を調べてみた。
 
 2 飛燕のこと
 船越明少佐搭乗機は三式戦闘機愛称「飛燕」(ひえん)である。当初キ61と呼ばれた飛燕は皇紀2603年(昭和18年)に制式(識別記号を付与)採用されたため,年号の最後の番号をとって三式と呼ばれた。ドイツで開発されたメッサーシュミットMe109に似たスマートで優美な機体から“和製シュミット”とも呼ばれた。Me109に搭載された液冷(水冷)エンジンをライセンス生産して装備していたが,空冷が主流であった陸軍戦闘機の中で唯一の液冷(水冷)戦闘機であった。
飛燕は,昭和16年末に初飛行が行われたが,軍用機は
開発後戦闘・戦局・地域などに応じ操縦者・整備者の
意見により適合化や改良されるが,飛燕も制式採用以
降でも多くの改造が加えられた。例えば機関砲口径の
大型化,燃料タンク容量の増量,視界確保のための風                  陸軍戦闘機   飛燕
防の改良,燃料タンクの耐弾性向上などである。
最初の飛燕は最大速度毎時590Km実用上昇限度1万1600mで三式1型と呼ばれた。その後高速化を図るため過給機(ターボ)のためのエタノールタンクを追加し,爆撃機を攻撃するために従来の12mm砲から20mm砲へと変更した三式2型が開発された。さら機体はそのままで不調で不評であった液冷エンジンを空冷エンジンに置換えた五式1型が作られた。五式1型は好評であったが量産が始まったのは終戦直前であり,船越明少佐の頃に飛行第56戦隊に配備されていたのは三式2型であった。それも5月の初めに配備されたばかりで機数も20機程度であり,液冷式に起因する不調や整備員の不慣れで稼働率は決して高くなかった。飛燕は当初艦艇攻撃や戦闘機戦用として占領地に配備されたが,戦局が急を告げると国土防衛用の戦闘機として超空の要塞B-29の邀撃用となった。