B29による空襲
3 本土空襲のこと     
国土を接する欧州では例えば150Kmに及ぶフランスのマジノ
線のような堅固な要塞を築いて防衛した。しかし四方海の我
が国では,軍部の「攻めるを重んじ,守るを軽んずる」方針
に従って,国土防備はほとんど顧みられなかった。しかし戦
いの主力が大艦巨砲から航空機に移るにつれ,空の侵略から
の護りを高める必要性がいわれた。とくに開戦4ヶ月にも満
たない昭和17年4月,日本近海1200Kmまでに迫った空母ホ
―ネットから発艦した「ドゥーリトル隊」16機の爆撃機B-25
による東京などへの本土空襲が行われ,防空対策は焦眉の急
となった。そこで高射砲陣地を各地に設営し防空専任戦闘機
の配備を計画したが,機体大量生産や搭乗員・砲撃兵養成は
一朝一夕には成らず,また伸びきった戦線を維持し悪化した
戦局に対応するための戦闘機が優先されたため,国防は後手
に回らざるをえなかった。
やがてサイパンやグアムなどの南方諸島が米軍の手に落ちたことにより,それらを基地とする長距離戦略爆撃機「B-29」による日本本土空襲が始まった。B-29は予圧装置や排気ターボを装備していたため酸素や防寒具がなくても1万mの高々度を高速で飛行できた。昭和19年末から始まったB-29での各都市への空襲では,多い時には一度に800機が飛来した。当初日本の邀撃を恐れ夜間に高々度から軍需施設を狙った精密爆撃(ピンポイント爆撃)が主であったが,高射砲も届かず飛燕などの戦闘機もその性能から有効な攻撃ができないでいたため,昭和20年3月からは昼間に高度を6千mまでに落としての攻撃に変わった。こうした中「船越明少佐」は運命の日を迎えた。

4 戦闘の様子
昭和20年5月11日早朝,米第21爆撃機軍団(第58,73,314爆撃隊)は関西地区が晴天との報を得た。そのため作戦任務172号に沿ってサイパン・テニアン・グアム基地から合計102機(出撃数は小規模)の戦略爆撃機B-29と護衛戦闘機P-51が発進した。硫黄島上空を経たのち紀伊半島を目指し午前9時過ぎには大阪上空に達した。
空襲を告げるサイレンが鳴り晴れた上空6千mは飛行機雲を靡かせ朝日に銀翼を輝かせたB-29で埋め尽くされた。3月13日の大阪大空襲3月17日の神戸大空襲を始め関西でも数十回の空襲を受けていた人々は不安げにその行方を見守った。
当時阪神地区の防空を担うのは伊丹飛行場(現大阪国際空港)にあった陸軍56戦隊であった。本隊はB-29を足摺岬において捕捉攻撃する戦法をとるため佐伯飛行場(大分県)に展開していて,船越明少佐(当時大尉)は留守部隊の飛行隊長として,B-29に体当たりし戦死した緒方淳一大尉飛行隊長に代わって5月に着任したばかりであった。

敵機来襲との報を受け,B-29の高々度までも上昇できる性能を有する4月に配備されたばかりの三式2型飛燕に搭乗し邀撃に向かった。当日B-29側は,敵機41機を確認し261回の攻撃を受け概ね撃墜31機と記録(かなりの錯誤が含まれると思われる)しているが,そのうちの1機が船越明少佐の飛燕であった。彼は急上昇の後,京都府南部金蔵寺上空で果敢にB-29の群れに突撃した。しかし衆寡敵せず護衛機からの12ミリ銃弾を頭部に被け,パラシュートでの脱出も許可されていたがそれも間に合わず金蔵寺上空で墜落壮烈な戦死を遂げた。
その後92機のB-29は,兵庫県武庫郡本庄(現・神戸市東灘区)にあった川西航空機甲南製作所への精密爆撃を敢行した。9時53分から10分の間に高度5000mから460トンの爆弾を投下し同製作所の70%を破壊した。南西にあった住宅なども影響を受け死者1093名負傷者924人の被害があったが,米機の損害は3機損傷のみであった。

 附
撃墜のさらに詳しい情況を知りたいと思い近くで空戦の様子を目撃した人を探していたところ、西京区大原野外畑の上田広次氏の話が、子供の頃この戦闘を目撃したと、平凡社「史料 京都の歴史・西京区」に付属した小冊子に対談記録として数行残されていることが分かった。しかし上田氏は現在所在不明で、また小冊子も正規のものでないため図書館等には収蔵されていない。